昭和48年10月03日 朝の御理解
御理解 第45節
「世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目が潰れるというが、三宝様は稔程かがむ。人間は身代が出来たり、先生と言われる様になると、頭を下げる事を忘れる。神信心して身に徳が付くほどかがんで通れ。とかく出る釘は打たれる。よく頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つ事はあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりする事はないが油断をすな。慢心が出るとおかげを取りはずすぞ。」
世に三宝様踏むなと、是は尊い物大切な物という意味で頂かねばならない。今日私は是を合楽の一番欠けておる所を、実質本位というか、先ずまぁ言うならば人が助かる事さえ出来ればと、言う様な意味の事に非常に重きを置きますけれども、形とか形式とか言う事をおろそかにする向きがある。私は今日その形や形式の事をね、それをそれだけになったらもうこんな詰らん事はありませんがね、けれども矢張り尊い物は尊い物として、身につけて行くと言う事ですね。
勿論人が助かる事さえ出来ればという、いうなら実力主義と申しましょうか実力的に見ても、形の上から見てもです、成程とこう合点が行く様な所がです、所謂いうなら、頭を下げる事を忘れると言う事を言われておる。頭を下げるという事は、言わば是は形式です。まあ形なんです。ちゃんと心で下げとれば良い言う事ではない。矢張り形の上にもです、頭を下げる事を忘れる。まあ私は是は合楽流儀でね、合楽で欠けておる所を思うて見て、今日思うんです。
例えて申しますとお茶ならお茶を稽古致します。それこそ一手間違えても先へ進まれないと言う様な、一つの約束があるんです。只お茶は美味しく頂きさえすれば良いというのだったらもう、形式は要らない事になりますよね。けれども矢張りお茶を美味しく頂くと同時に、一手間違えても先には進まれないという、約束を守って始めてそのお茶の値打ちがあるのです。お茶をする人達というかお茶を稽古する値打ちがあるのです。
例えばならお抹茶を頂くでもただ茶筅でちゃと混ぜ練りさえすれば泡がたって、まあいうならば、お茶の味がそれ程変わるものでない。お茶が美味しかりさえすれば良い、どうも、合楽はそう言う様な感じが致しますですね。美味しゅう頂きさえすれば良い。そして、形の事形式の事は、言うにこの粗雑になっとる。だから是は本当に愈々素晴らしい事になる為には、言うならばお茶も美味しい同時に、又一手も間違える程しのないものが、信心の上でも、出来なけれはならない。
信心のいうなら実力を得ると同時になら矢張り、金光教では形式と言う事をやかましく申します。ですからそういう実力を得て、そして形式と思われる形の事にもです、矢張りきちっとしたものが出来て来た時に始めて、鬼に金棒と言う事になるのじゃないでしょうかね。今日私はなんかこの四十五節を頂いて、しきりにその事を感ずる。例えば合楽の場合その両面がね育って行き、両面を身につけて行かなければいけないと、言う事であります。善導寺の親先生なんかはもう、非常にこの事をやかましく言われます。
昨日も若先生と二人で話した事が御座いますが、親先生が仰る事は、みな形ばっかり形式の事ばっかり言うてと言う様な、そのうふうに、軽視する訳には行かんもんねと言うて、若先生が言うんですよ。やっぱりそれを信念と思うておられるんですからね。ですから親先生の言われる例えば、なら師匠と弟子と言う間柄と言う物は、こうなかなければならぬ、信者と先生というのは、信者はこうなからなければならないと言う事を、ちょっと間違うとすぐ注意をされます。だから今まで私共はそれを。
そんな形ばっかり言いなさってからという気がしたけどもいやいやそうじゃないな、やっぱりその形を大事に所謂三宝様、世に三宝様踏むなと言う事は尊い物大事な物、大切な物と言う風に今日は頂いた。だからその形式を言わんでも実際に内容も素晴らしければそれで良いと、言うだけではなくて内容も素晴らしい、形も又素晴らしいと言う事の為には私共は大いに、例えば親先生の教えて下さる事等の面をね、きちっと身につけて行くおかげを受けなければならないとう言う事を感じます。
人間は身代が出来たり、先生と言われると頭をさげる事を忘れる、神に信心して身に徳が付く程かがんで通れと言う事は、ここを私は今日はね、形の事を形の事を忘れるなと言う事だと思うですね。言わばそれこそ頭もぺこぺこ頭を上げると言った様な意味じゃないです。一つの例えば、昨日も或る先生の事でちょっと、先の話の続きなんですけれども、あっちの若先生はそれは皆さんがね、お結界に座っておると金光様と言う気持ちが、こうやってお取次を願う。いや平身低頭で信者が願って来る。
すると自分がもう金光様になった様な気分で言葉付きから、そげな事じゃいかんばいこりゃこうばい、先代はこう言いよったよと言う様な事を言うから、そこの場では信者がはっと言うとるけども、心じゃ○○風ばっかり吹かせると言うて、評判が悪いねと言うて話した事でした。又どこどこの先生はあれだけ出来ておられるだけれども、いうならば頭を下げる事を忘れておる。だから立派だけれども皆んなが軽視する向きがある。是はもう取次者として、是はもう銘々、私にした所で、あんたにした所で。
考えなければいけない事だねと言うて話した。だから内容さえ出来ておればじゃなくて、それは内容の事は解らない人もあるです。だからいうならば、私が良く言う実意丁寧の化物になってはならない。と言う事は内容が無しにそうであっては、ならないというのであってね、内容と人が助かる事さえ出来ればという力を受けて、言うならば先生と言われ、身代が出来て来る。
先生になると言う事は、矢張りそこに力を認められて先生になるのである。言うならば身分が出来る、財産が出来るというのはもうそれだけ言うならば、内容が出来たと言う訳である。それならばそれを反比例する事無しにです、出来れば出来るほど、いうならば形の上でも頭を下げろと仰っておる様な気がするですね。自らを下がるというそれではなくて、やっぱり心掛けとかにゃならない。
私は合楽で一番欠けておるものは、そう言う所がおろそかにされて来た様に思う、お茶を頂くのに、只美味しゅうさえ頂けばよい成程、成程それで理屈が通る様であるけれども、それはしかし立派とは言えない。お茶も美味しいけど、その点前が素晴らしい。もう点前を見るだけで、言うなら何というですか、茶席の雰囲気とでも申しますか、こちらの心までキャッチする様な感じがする。そして立てて頂いたお茶が、なお又美味しいと言う事になった時が本当の事だ。どうも私共の場合は。
そのお茶は美味しいけれども、点前の方いうならもう一手も二手も所じゃない。もうそんな事はもうあまりにも無造作に、問題なしとして来た事がです、いうならば三宝様を、踏んでおった様な事になっておったんではなかろか。形の事を軽視する形もまた尊い、所謂大切なものであるという。尊いと言うより大切なものであると言う事。実力を受けると言う事が、いうなら尊いならです、形の事も矢張り大切だと言う事。その両方が出来た時に始めて鬼に金棒というか、成程見事と言う事になるのじゃないだろうか。
矢張り信心の道をお互い、此の様にして体得を願い、信心の道を解らして頂こうと、稽古さして頂いとるので、御座いますから、信心その物が頂けて、身に付いて来るだけでなくて、信心のその道と言う物をね、には矢張り形も伴わなけれはいけないてと云う事。言うならば、信心さして頂く者の周り、エチケットとでも申しましょか、と言う様な物もゃんと身に付けて、それを行の上にも。
形の上にも現して行くと言う事が、言わば頭を叩かれる、こづかれると言った様な、合楽の場合。そういう形を軽視した時ではなかろうかと思うです。勿論中身がそれの為に、おろそかにする様な事であってはなりません。中身も同時にいうならば、形も立派になって行くという。今日はそこん所をです、矢張り大切な物として、頂いて行かなければならんと言う事を聞いて頂きましたですね。
どうぞ。
昨日、野口さんの所の五十日祭でしたが、もう御霊様が喜びなさりさえすればよかというのではなくて、もうその形式の上にも、そりゃもう見事な五十日祭でしたね。あれでいて成程この雰囲気を見てです、御霊様が助かって御座る、喜んで御座ると言う事を、皆悟って下さいというて話した事でした。それは本当に見事でした。やはり御霊さんの徳であるなあというだけではなくてですね、遺族の人達のいうなら、行き届いた形の上の事に心されたからだと思うですね。四日、五日は親先生はじめ百三十一名教祖九十年祭のため御本部参拝のためお休み。